2025年度 1号 大きな石と小さな石 ~目標を達成する方法~

コロナ禍前のこと、私はあるイベントにゲストとして呼ばれ、外国人留学生と交流する機会がありました。集まったのは20人ほどで、中国人が多くを占めていましたが、ネパールなど東南アジア出身の学生や欧州からの留学生もいました。

この集まりは「日本で働きたい留学生」を支援する組織が主催したもので、ほとんどの学生が日本の企業に好印象を持っていました。しかし一人、スウェーデンから来た学生だけは少し違う意見を持っていました。彼は日本の飲食店でアルバイトをした経験があり、「日本の会社は従業員を酷使する」と不満を漏らしていました。実際、相当きついシフトで働かされ、卒業後は日本で働く気はないと言います。

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そこで私は少し詳しく話してみました。

「日本には250万社以上の企業があり、百年以上続いている会社が2万社以上もあります。そして全体の95%以上が中小企業です。これはどういう意味かわかりますか?

日本の中小企業は業績が悪化すると、まず経営者自身の報酬を減らし、次に管理職の待遇を見直し、それでもダメなら社員の残業を制限したりワークシェアを導入したりしてなんとか雇用を守ろうとします。人員整理は本当に最後の手段です。多くの国では逆の順番で人件費を削るので、この違いが日本企業の長寿を支えているのですよ。最古の会社は、なんと千五百年以上続く金剛組という建設会社です。だから、もう少し日本の企業を幅広く調べてみては?」

この話をすると、質問したスウェーデン人だけでなく、他の留学生たちも目を丸くして驚いていました。もちろん、企業が長く続く理由はそれだけではありません。経営者が目標を明確にし、家族経営的な信頼関係を大切にし、他社とも競争だけでなく共存共栄を図るという文化も大きいと思います。これらが結果として、世界でも珍しい長寿企業を多く生み出してきたのでしょう。

この話の後、目標を達成するために役立つ「大きな石と小さな石」という有名な話を彼らに紹介しました。

ある親方が二人の弟子AとBに、大小の石を一つの樽にできるだけ詰めるように命じました。Aは作業を楽に済ませようと、先に軽くて入れやすい小さな石をどんどん詰め、その上から大きな石を載せようとしました。ところが、大きな石は小さな石の上に乗るだけで入り切らず、樽からはみ出してしまい困り果ててしまいました。

一方、Bは少し考え、大きな石を先にいくつか入れ、隙間に小さな石を詰めました。そしてまた大きな石を入れ、さらに小さな石を埋める。この作業を繰り返すことで、大きな石も小さな石も見事に全て樽に収めることができたのです。

この話が示すのは、限られた時間や人生の中で、何が大切で何が優先順位の高いことかを見極めて行動する大切さです。大きな目標や重要な課題は手間がかかるし、すぐには手を付けにくいため、つい後回しにしがちです。その間に簡単にできる小さなことばかりを先に片付けてしまい、結局本当に大事なことを手付かずのまま過ごしてしまう人も多いのではないでしょうか。

だからこそ、目の前の小さな用事にばかり気を取られず、自分にとっての「大きな石」が何かを常に意識することが大切です。大きな石を先に樽に入れるように、自分の人生の時間にも大きな石を優先して入れていけば、きっとやるべきことも、やりたいことも、すべて収めることができるはずです。

2025年度 2号 東京ディズニーランドのちょっといい話

東京ディズニーランド(TDL)は、1983年に開園して以来、40年以上の歴史を誇りながら、今もなお日本一の集客力を維持しています。私は開園したその年に訪れ、夢と魔法に包まれた非日常の世界に大きな衝撃を受けたことを今でも覚えています。

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TDLがこれほどまでに多くの人々に愛され続けている理由は、アトラクションの魅力や徹底した清潔さ、夢のような演出だけではありません。十数年前に知った、あるレストランでの出来事に、その秘密が垣間見えた気がします。

ある日、TDLの園内レストランに若い夫婦が入店しました。二人はテーブルにつくと、アルバイトの店員を呼んで「お子様ランチを二つください」と注文したのです。店員は少し戸惑いました。

というのも、TDLには「お子様ランチは9歳未満の子どもに限り提供できる」というルールがあるからです。規則を思い出した店員は申し訳なさそうにそれを説明し、他のメニューを勧めました。すると、その夫婦は言葉を失い、とても悲しそうな表情を浮かべました。不審に思った店員が理由を尋ねると、奥さんが小さな声で話し始めました。

「今日は、実は亡くなった娘の誕生日なのです。体が弱くて、1歳を迎えることができませんでした。本当は家族3人でディズニーランドに来て、一緒にお子様ランチを食べる約束をしていたんです。だからせめて、今日はこの子のためにお子様ランチを頼んであげたかったのです。」

話を聞き終えた店員は、しばらく黙って考え込んだ後、「かしこまりました」と穏やかに答えました。そして二人が座っていた小さなテーブルから、4人掛けの少し大きなテーブルに案内し直しました。さらに夫婦の間には小さな子ども用のイスを準備しました。「お子様はこちらにどうぞ」と微笑む店員の顔を、夫婦は涙をこらえながら見つめていました。

やがて運ばれてきたのは、2つではなく3つのお子様ランチでした。店員はにこやかに言いました。「どうぞご家族で、ゆっくりお楽しみください。」

もちろん、これはレストランのマニュアルにはない対応で、規則に厳しい企業であれば問題視されるかもしれません。しかし、TDLの会社はその行動をとがめるどころか、心から評価したといいます。後日、夫婦から届いた手紙には、こう綴られていました。

「お子様ランチを前にして、二人で泣きながら食べました。まるで娘がそこに座っているように思えました。家族の時間を過ごすことができて、本当に幸せでした。これからは涙を拭いて、前を向いて生きていきます。また来年も、再来年も、娘と一緒にディズニーランドに来ます。そしていつか、この子の妹や弟を連れてまた訪れます。」

この話は、今でもネット上で「心温まるエピソード」として語り継がれています。また最近では、訪日外国人が似たような心遣いを受けて感動したとSNSに投稿し、世界中に拡散されることも珍しくありません。

ディズニーのテーマパークが掲げる「夢と魔法」は、最新のアトラクションや華やかなパレードだけでなく、こうした現場で働く一人一人の心配りによって支えられています。マニュアルを超えて、目の前のお客様を思いやる真心。それこそが、40年を超えても人々が「また行きたい」と思える理由なのだと感じます。

どんな場所でも、どんな仕事でも、相手を想う気持ちを忘れなければ、きっと誰かの心に残る「ちょっといい話」が生まれるはずです。TDLでの小さな奇跡は、その大切さを教えてくれる象徴的な出来事だと私は思っています。

2025年度 3号 「1.01」と「0.99」の法則  〜凡事徹底の大切さ〜

「毎日少しずつの努力が、やがて大きな成果につながる」という教えは、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。それを、数字でわかりやすく示すのが「1.01」と「0.99」の法則です。

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 「1.01の法則」とは、毎日ほんの一パーセントだけ自分を高める努力を、

一年続けるというものです。

たとえば、

「1.01 ×1.01 ×1.01 × ……」

と、これを365回繰り返すと、どうなるでしょうか。

計算の結果は、なんと37.8倍にも膨れ上がります。

一方、「0.99の法則」は逆です。毎日一パーセントずつ手を抜いてしまった場合、

「0.99 ×0.99 ×0.99 × ……」

を365回繰り返すと、結果はわずか「0.03」。ほとんどゼロに近い数値です。

最初の差は、わずか「0.02」にすぎません。それでも、一年という積み重ねの中で、このように圧倒的な差が生まれるのです。

この法則を思い出すと、日々の小さな努力の大切さが、誰にでも実感できるのではないでしょうか。

これと同じ考え方を表す言葉に、「凡事徹底(ぼんじてってい)」があります。

当たり前のことを、当たり前に、徹底して続けるという意味です。一見簡単そうに思えますが、実際に実践し続けるのは容易ではありません。

何かを上手く成し遂げる人を見て、「あの人は才能があるからできるのだ」と考えてしまいがちです。しかし、本当は「努力を継続できること自体が一つの才能」と言ってもいいでしょう。どれほど続けられるか、それが何より大切です。

製造業の現場では、不良品を出さないために「A・B・Cを実行せよ」とよく言われます。

「A」は「当たり前のことを」、

「B」は「バカみたいに」、

「C」は「ちゃんとやる」。

この三つを徹底することが、品質管理の基本なのです。

また、中国の古い教えで有名な老子の言葉に「果にして驕る勿れ(はたしておごるなかれ)」というものがあります。

どんなに努力して結果を出しても、威張ったり、周りを見下したりすれば、人からの信頼も愛情も失われてしまうという戒めです。

良い結果が出せたのは、自分の努力だけでなく、周囲の支えや、ほんの少しの運が味方してくれたからかもしれません。そのことを忘れず、謙虚に振る舞えば、得られた喜びを家族や仲間と分かち合うことができます。

このように、「凡事徹底」は人としても仕事人としても大切な教えです。

さらに「1.01の法則」を思い出してください。

当たり前のことを怠らずに、そこに「ほんの少しの努力」を積み重ねるだけで、一年後には大きな力になります。

今日の1パーセントの努力が、未来を大きく変えてくれるかもしれません。

毎日コツコツと、自分を少しずつ磨き続けていきましょう。

2025年度 4号 仙台空襲で思ったこと ~奈津子とB29~

「奈津子・十一才の夏」という可愛らしい女の子のブロンズ像が、仙台市戦災復興記念館に置いてあります。この像は私の知人でもあり人生の大先輩であるブロンズ工芸職人のSさんが1995年に創作寄贈したもので、7月の仙台空襲前後になると思いだします。

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仙台空襲は1945年7月10日0時3分にアメリカ軍によって仙台市の中心部への大規模な空襲で、そのほとんどが焼け野原になり1400人の死者と1700人の負傷者が発生しました。

アメリカ軍は、空襲の前に「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷したビラを空から撒いたといい、それが本当ならもっと被害が少なかったのではと思います。

 B29の大編隊による空襲は123機におよび、焼夷弾の総投下量は9百トン以上で1万3千個が投下されました。アメリカ軍は、前もって計画していた商業施設や民家が密集した爆撃地区の周りに油をまいて、それを燃え上がらせ人々が逃げにくいようにしてから、中心部に雨あられと焼夷弾を落としていったそうです。

 前述のSさんは以前に会った時、私に以下のように当時のことを仙台弁でとつとつと話してくれました。

「その空襲の時、私は十二歳だったが市内の一番丁に住んでいて警戒警報を聞き、自宅の防空壕へ入りました。しかし、そこでは危ないということで近くの片平丁国民学校まで走り、学校の防空壕に逃げることができました。夜空から爆弾が雨のように降ってきて生きた心地がしなかったのですが、2時間ほど空襲が続いた後に無事外に出てみたら、自宅の穴に逃げ込んだ人はみんな死んでいました。最近、仙台空襲で亡くなった人の名簿の中に私と同じくらいの “奈津子”という十一歳の女の子の名前を見つけました。このような少女も死んでしまうという戦争について、皆に考えてほしいということでこのブロンズ像を作ったのです。」

 そのブロンズ像を作った後に「仙台空襲で亡くなった人のわかるだけの名前を全部銅板で作りましたが、それを腐食しないようにコーティングできませんか?」いう相談がSさんからあり、私は関連した仕事をやっていたこともあり協力しました。それは名前をひとつずつ鋳型で作った表札状のプレートで、千枚近くあり、毎年7月になると市戦災復興記念館で、全部を床に並べて展示していました。

 B29といえば、「B29墜落の地に刻まれた兵士34人の名」という七ヶ宿にある慰霊碑も思いだします。

 1945年3月10日、宮城県と山形県にまたがる蔵王連峰不忘山に、米軍の爆撃機B29が墜落しました。それも3機が2時間くらいの間に次々と標高千七百mの不忘山に吸い込まれるようにして衝突し、米軍34人が命を落としました。テレビでもその特集番組を作り放映しましたが、大変にミステリアスな「事件」ということで一時話題になりました。  

 墜落した原因は諸説あるようですが、その日は東京大空襲と同日の3月10日がカギのようで、東京から三百㎞離れている不忘山は、時速五百㎞のB29であれば四十分くらいで到着します。しかも、東京では高度約千五百mの低空からの爆撃作戦なので、爆撃時の熱風でレーダーが故障して蔵王まで来てしまい、山に衝突してしまったという説が一番納得することができました。

 6月23日沖縄慰霊の日から終戦の日の8月15日までに各地で様々な記念式典がありますが、私たちは年に1度でも「平和」について深く考えることが必要なのではないでしょうか。

2025年度 5号 あなたは、自分を友人にしたいと思いますか

ドッペルゲンガー、つまり自分自身の幻を目にする現象ではありませんが、もしこの世にもう一人の自分が存在したとしたら、その「もう一人の自分」と親友になりたいと思うでしょうか。性格も能力も知識も経験も、すべて自分と同じ人を、親友として選ぶ人は、案外少ないのかもしれません。

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「近くて見えぬはまつげ」という言葉があります。遠くのものはよく見える目でも、自分のまつげは見えないように、人は他人のことはよく観察できても、自分自身の姿は意外と見えていない、という教えです。世の中には、自分のことは棚に上げながら、他人の欠点には厳しい目を向ける人が少なからずいます。

ことわざには、そうした自分を戒めるものが多くあります。「己の欲せざる所は人に施す勿れ」とは、自分がされて嫌なことは、他人にもしないように心がけなさい、という意味です。さらに「頭の上の蠅を追え」「易者身の上知らず」「寝ていて人を起こすな」なども、自分のことを顧みず、他人にばかり口を出す愚かさをいましめる言葉です。こうした教えに、思い当たる人もいるのではないでしょうか。

また「万象わが師」「人は自分の鏡」という言葉もあります。たとえば、鏡の中の自分の顔が汚れているのに、鏡だけを拭いてきれいにしようとする。これでは何の意味もありません。本来は、自分の顔を拭き清めるべきなのです。同じように、人を批判し変えようとする前に、まず自分が変わらなければならない、ということを忘れてはいけないのだと思います。

自分をいましめる言葉に「オイアクマ」というものがあります。「おい、悪魔!」という呼びかけの形ですが、これは「おごるな(オ)、威張るな(イ)、焦るな(ア)、腐るな(ク)、負けるな(マ)」の頭文字を並べたものです。自分の心の中に住みつく小さな悪魔を追い払い、真っすぐに生きていくための合言葉と言えるでしょう。

私が現役の頃、良いコミュニケーションを築くために、管理職全員に「エゴグラム式性格診断」をやってもらったことがあります。これはアメリカの心理学者、エリック・バーン博士が考案した「交流分析」という心理学理論を基にした性格診断で、「自分の本当の性格を知り、長所を伸ばし、短所を改善する」ことを目的としています。

私が参考にした書籍には、243通りもの性格パターンが紹介されていました。そこには、上司や同僚、部下や得意先との関わり方だけでなく、家族や友人、恋人に対する接し方の特徴や、気づきが詳しく解説されていました。こうした診断を通じて、自分を客観的に見つめることで、「自分がもし友人だったら付き合いやすいだろうか」「反省すべきところはないだろうか」と考える良い機会になったのです。エゴグラムの結果を見て、自分の性格と正直に向き合い、改善の努力を続けること。そして数年後に再び診断をしてみれば、成長した自分に出会えるはずです。

「自分自身を友人にしたいか」という問いは、少し変わった問いかけかもしれません。ですが、この問いに胸を張って「もちろん!」と答えられるように、自分を磨き続けていくこと。その積み重ねが、きっと人生をより良くするための大切なヒントになるのだと思います。

2025年度 6号 エイリアン級の最強生物クマムシ

「人類が滅んでも最後まで生き残るのは虫である」と言われることがあります。そんな虫の世界で、想像を超える過酷な環境でも生き抜く、まさにエイリアン級のスーパースターが「クマムシ」です。

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以前、新聞の片隅に「山形県鶴岡市で新種のクマムシ発見」との記事を見かけ、「最強生物とも呼ばれるクマムシ」という見出しに惹かれて調べてみたところ、その生命力はまさに不死身と言えるものでした。

クマムシは、世界中の海や山、熱帯から寒帯まで、ほとんどあらゆる環境に生息しています。鶴岡で見つかった新種も、学者が自宅の駐車場のコケの中から採取したものだそうです。虫好きの間では常に人気上位で、その魅力の一つは、ある状態になると空気も水も食料も不要になり、高温・超低温にも耐える点にあります。

さらに驚くべきは、その耐久性です。どんな生物も耐えられない高圧や真空、高線量のエックス線やガンマ線、重イオンビームすら跳ね返す、不撓不屈のエイリアンさながらの存在なのです。

クマムシの英名は「ウォーター・ベア(水の熊)」と呼ばれ、その姿は小さな動物のようで、のそのそと熊のように歩くことから名付けられました。知られているだけでも千種類以上が存在し、体長はわずか〇・二ミリほど。

日本に多いオニクマムシは、一〇秒間で一ミリほどしか歩けないほどのんびり屋です。そのため、緩歩動物門という独自の分類が与えられており、四対八本の肢であんこ型の体を揺らしながら、ゆったりと進む姿にはどこか愛嬌さえ感じられます。

しかし、こののんびり者がひとたび環境が悪化すると、その真価を発揮します。クマムシは体内の水分をわずか三パーセントほどまで減らして干からびた状態になります。見た目は死んでいるようですが、これを「乾眠」と呼びます。この乾眠状態こそ、最強生物の名を裏付ける秘密です。

その驚異的な耐久力は、次のような実験で証明されています。

一、液体空気のマイナス二百度、液体ヘリウムのマイナス二百七十二度の低温に耐える

二、プラス百五十一度の高温にも生存可能

三、六千気圧(深海一万メートルの七十五倍)を生き延びる

四、五十七万レントゲンのエックス線(人間の致死量の千倍以上)を受けても無事

五、六時間の紫外線照射も平気

六、アルコールや殺虫剤の臭化メチルにも耐性

七、空気のない真空でも生存可能

驚くべきは、乾眠状態のクマムシに水を一滴たらすだけで、数分後には再び目を覚まし、ピクリピクリと動き出すのです。この生命力はまさに脱帽もので、乾眠状態なら半永久的に生きられるという説を唱える学者もいます。

欧州の宇宙機関ESAが実際にクマムシを宇宙へ飛ばしたという話もあり、真空の宇宙空間でも生存できることが確認されています。

日本にもクマムシの研究者は多く、その研究が進めば、未来には不治の病の患者を乾眠させ、医学の進歩を待つ技術や、数十年・数百年かかる宇宙移民を乾眠状態で輸送する技術が開発されるかもしれません。さらに、絶滅危惧種の保護や、人間の長寿・健康にも応用される日が来るかもしれないのです。

小さな体に宿る、計り知れない生命の力、クマムシは、まさに人類が学ぶべき「生き抜く知恵」の象徴と言えるでしょう。

2025年度 7号 他者への寛容

隣人同士というのは、なぜ仲が悪くなりやすいのでしょうか。一番近い存在だからこそ、否応なく顔を合わせる機会が多く、ほんの些細なことも気になってしまうのかもしれません。それは人と人との関係だけでなく、家と家、さらには国と国の関係にも当てはまるように思います。

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私の知人が隣人と境界をめぐって揉めたことがありました。たった数センチのはみ出しが原因で長い間争いになり、不動産会社に仲裁を頼んでようやく収まりました。けれども、その後も木の枝や落ち葉のことで苦情が続いたそうです。ところが知人はこう語りました。「隣の家では鳩を飼っているので鳴き声や臭いが気になりますが、それを言ってしまったら、ずっと気まずく暮らすことになる。だから我慢しています」と。これこそ「大人の対応」と呼べる姿勢ではないでしょうか。

 世界に目を向けると、この「大人の対応」はさらに難しくなるようです。多くの国々が隣国と争いを抱えています。中国とモンゴルやベトナム、インドとパキスタン、中東のイランとイラクやサウジアラビアなど、過去の戦争や宗教、領土問題が複雑に絡み合っています。ヨーロッパでも旧ユーゴスラビアの分裂や、ロシアとウクライナの衝突が記憶に新しいところです。

 隣国同士の不仲の多くは「許さない」「譲らない」という感情が根にあるようです。日本と韓国の関係もその一つでしょう。歴史的な出来事をめぐって、時に強い言葉が交わされます。しかし考えてみれば、日本も七百五十年前に蒙古襲来で大きな被害を受けています。対馬では民間人が犠牲となり、史書に残るほどの悲惨な出来事もありました。それでも今日の日本人がその歴史を蒸し返すことはほとんどありません。これは「忘れやすい国民性」ではなく、むしろ「水に流す」姿勢といえるのかもしれません。

 もちろん、過去を反省することは大切です。しかし「いつまでも責め続ける」ことと「未来に向けて許す」ことのバランスも必要です。罪を犯した親を持った子どもに「どこまで償えばいいのか」という問いが難しいのと同じで、国家間の歴史問題も単純には答えが出ません。だからこそ、「譲る」「許す」「水に流す」ことが人と人、国と国の関係を和らげる鍵になるのではないでしょうか。

 東日本大震災の後に日本に帰化し、二〇一九年に亡くなったコロンビア大学名誉教授ドナルドキーンさんは、「日本人の一番の美徳は他者への寛容です」と語っていました。そして同時に、「最近の日本人はその心を失いつつあるのが残念です」とも言っていたそうです。

 確かに、社会が便利になり、個人の権利が強調されるようになるにつれ、私たちは「譲る心」を忘れがちになっているのかもしれません。けれども、隣人との小さな行き違いから国家間の争いに至るまで、結局は人と人との関係です。相手を思いやり、些細なことは受け流し、必要な時には「水に流す」。その積み重ねが、寛容の心を育て、より良い未来を築いていく力になるのだと思います。

2025年度 8号 魅知の国ウズベキスタン パート1 ~青の都から砂漠の町へ~

皆さんはウズベキスタンという国をご存じでしょうか。中央アジアに位置する国で、名前くらいは聞いたことがあっても、どこにあるのか、どんな国なのか、すぐに答えられる人は多くないと思います。私自身も、訪れるまではほとんど知識がありませんでした。

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コロナ禍の前、仙台空港からの直行チャーター便を利用したツアーで、私は妻とともにこの国を訪れました。旅のきっかけは「今しか行けない国を優先して旅したい」という思いから。隣国にはアフガニスタンやイランがあり、「治安が悪いのでは?」という漠然とした不安もありましたが、実際に行ってみると、聞くのと見るのとでは大違い。そこには、人々の温かさや歴史の重みを感じられる、まさに「魅知(未知)の国」が広がっていたのです。その旅を今回から三回にわたって連載します。

サマルカンドとの出会い

 仙台空港を飛び立って約9時間半。時差は日本より4時間遅く、夕暮れ時に「青の都」と呼ばれるサマルカンドの空港に到着しました。首都はタシケントですが、サマルカンドはシルクロードの中心として栄えた都市です。空港を出ると、民族衣装に身を包んだ女性たちの舞踊と楽団の笛や太鼓が歓迎してくれました。その華やかな出迎えに、旅の期待は一気に高まったのを覚えています。

 サマルカンドの街には、青いタイルで彩られた壮麗なモスクやマドラサ(神学校)が並び、まるでタイムスリップしたかのような光景が広がっていました。シルクロードを通じて、ここに数多くの商人や旅人が集まり、東西の文化が交わったのだと思うと、歴史が一気に身近に感じられます。

果てしない砂漠の旅

 ツアー五日目、私たちは世界遺産の古都ブハラから「生きている博物館」といわれるヒヴァへ向かうことになりました。距離にして約四五〇キロ。キジルクム砂漠を横断する、まさに大冒険です。

 最初のうちは民家もちらほら見えましたが、1時間もすると完全に砂漠の世界に。といっても、ここはサハラ砂漠のような砂丘ではなく、赤茶けた土や石が広がる「土漠」に近い風景です。地平線の彼方まで、同じような景色が続きます。

ところどころに生える「ラクダ草」は、見た目は小さな草ですが、実は三〇メートルも地中に根を張り、水分を求めて生き抜いているとのこと。その生命力に、自然の厳しさと強さを同時に感じました。この砂漠の地下には金や天然ガスが豊富に眠っており、遠くには採掘施設も見えました。資源大国としての一面も垣間見えます。

砂漠の休憩時間

 途中、バスが停まり「ここでトイレ休憩です」と案内されました。周囲は三六〇度、何もない大地。女性はバスの右側、男性は左側とだけ決められ、あとは広大な自然がトイレとなります。最初は驚きましたが、これも砂漠を旅する貴重な体験のひとつ。思い返せば、笑い話のような思い出です。昼食は、ガソリンスタンドに併設された小さな食堂で、焼きたてのカバブとナンをいただきました。シンプルながら香ばしく、砂漠の風景の中で食べると格別の味でした。余った肉を犬に分けてやると、夢中で食べる姿に胸が熱くなったのを覚えています。

2025年度 9号 人の相対性理論~三分は短い?長い?~

秋になると、ノーベル賞の話題でアインシュタインの名を耳にする機会が増えます。彼の相対性理論は、時間や空間の感じ方が、観測者の立場によって変わるという物理学の理論ですが、これを人間の感覚にあてはめても同じようなことが起きているように思います。

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たとえば、楽しいことをしている時間と、退屈な時間では、同じ一時間でもまったく違う長さに感じられることがあります。

 学生であれば、クラブ活動に打ち込んでいると時間は一瞬ですが、興味のない授業中は時計の針が止まっているように思えるかもしれません。

 野球観戦で応援しているチームがリードしている九回裏のツーアウト満塁の場面と、逆に負けている時では、同じ一分でも体感時間は全く違います。サッカーのアディショナルタイム、ボクシングの最終ラウンド、信号待ちなどもそうですね。急いでいる時ほど、一分がやけに長く感じるのは不思議です。

 「三分」という短い時間も、人の状態によって感じ方は大きく異なります。短く感じる三分とは、空腹時のカップ麺の待ち時間、出勤前のふとんの中、子どもにとってのウルトラマンの戦闘時間、宇宙旅行での無重力体験時間などでしょうか。

 一方、長く感じる三分もたくさんあります。人前でのスピーチに慣れていない人が話す三分間、電車のトイレを待っている三分間、健康のためとはいえ、きつい三分間の縄跳び、退屈すぎる映画の三分間……。たった三分がとても長く、耐え難いものにもなり得ます。

 こうした「感じ方の違い」は、年齢にも表れるようです。以前、ある旅先で八十代の方とご一緒になり、年齢を聞かれた際に「もう古希を過ぎました」と答えたところ、「まだまだ若いじゃない」と諭すように言われ、思わず笑ってしまいました。

 人は五十歳のときには七十歳まで生きれば十分と思い、七十歳になれば平均寿命まででいいと言い、八十を超えると「まだやり残したことがある」と感じるようです。

 昔の遺跡の壁にも「近ごろの若い者は……」という落書きがあったといいますから、人間の感覚はいつの時代も大差ないのかもしれません。

 最後に、この「人の相対性理論」とは少し違うかもしれませんが、ある禅僧と将軍の興味深い逸話をご紹介します。

 徳川家光が、沢庵和尚に「何を食べてもおいしく感じない。何かうまいものを食べさせてくれ」と頼んだそうです。

 和尚は「では明日の午前にお越しください」と返事をし、家光は翌朝に訪れました。しかし、和尚はなかなか現れず、家光は空腹のまま午後まで待たされることになります。

 ようやく現れた沢庵が出したのは、大根の漬物と白いご飯だけ。それを家光は夢中で食べ、「これほどおいしいものは久しぶりだ」と感激しました。

 その時に沢庵は「食べるものではなく、あなたの心が味を決めるのです」と語ったといいます。この日出された漬物が、のちに「たくあん漬け」と呼ばれるようになったのだそうです。

 同じ「三分」でも、その人が置かれた状況や心のあり方で、その意味や重みは大きく変わるのかもしれませんね。

2025年度 10号 魅知の国ウズベキスタン パート2 ~青の都から砂漠の町へ~

小さな「国境」

 再びバスが走り出すと、突然検問所のような建物が現れました。実はウズベキスタンの中には「カラカルパクスタン共和国」という自治州があり、形式上の検問所があるのです。例えるなら、イタリアの中にあるバチカン市国のような存在でしょうか。厳しいチェックはなく、ただ通過するだけでしたが、「国の中に別の国がある」という事実は不思議で、強く印象に残りました。

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「生きている博物館」ヒヴァのイチャン・カラ

やがてバスはアムダリア川を越え、夕暮れの中、ヒヴァに到着しました。ここは「生きている博物館」と呼ばれる街。イチャン・カラと呼ばれる旧市街には、6世紀からの歴史を持つ城壁やモスク、宮殿がそのまま残されています。シルクロード交易で栄えたこの街並みを歩いていると、数百年前の商人や旅人たちの声が聞こえ、まるでアラビアンナイトの世界に迷い込んだように心が高鳴りました。

 イチャン・カラは高さ一〇メートルほどの城壁に囲まれた旧市街です。東西四五〇メートル、南北六五〇メートルの範囲にモスクや神学校、宮殿が立ち並び、まるで「進撃の巨人」の世界に迷い込んだかのような迫力がありました。城壁の外側のディチャン・カラには職人たちが住んでいたそうです。

 マーケットでは荷車の上に果物や野菜が山盛りに並び、売り子の女性たちは静かに客を見つめるばかり。人懐っこく声をかけてくる日本の商店街とは対照的で、不思議な落ち着きを感じました。奇妙な品物もありました。ロバの足を切断して作った三脚のようなもの。椅子にするのだろうかと思った矢先、少年が荷車を引くロバに弟を乗せて通り過ぎました。働き抜いたロバのその後を思い、少し胸が痛くなりました。

城壁と人々

 城壁の外には土漠の荒地が広がり、黄土色の道をトラックが砂埃をあげて走り抜けます。城壁に登って遊ぶ子供たちの姿や、門の土台に座り込む中年の男と老人との出会いも心に残りました。写真を撮ると、なぜか私だけが笑顔で、二人は肖像画のように真剣な表情をしていました。

 「太陽の国」と呼ばれたホルムズ地方の中心都市ヒヴァには、二〇ものモスクと六つのミナレットが点在し、小京都のような趣もあります。中でも「カルタ・ミナル」という未完成のミナレットは、青いタイルが美しく、思わず触れてしまうほどでした。もし完成していたなら九〇メートルの高さとなり、まるでバベルの塔のようだったといいます。

 また、二八〇本の木柱が並ぶジュマ・モスクも圧巻でした。十世紀に建てられ、十九世紀まで改修を重ねて今の姿に。サクラダ・ファミリアの工期さえ短く思えるほどの年月に驚かされました。

旅の途中、不思議に思ったのは治安の良さでした。スリや強盗に注意といったガイドの警告はなく、実際に危険を感じることもありませんでした。むしろ街で出会った人々は親切で、展望台で現地の新婚カップルに写真撮影を頼まれたり、女子高校生に「一緒に撮りましょう」と声をかけられたりしました。旅先で現地の人に笑顔で迎えられた経験は、今でも印象に残っています。 街の女性たちも、イスラム圏の象徴であるヒジャブを着けていない人が多く、ミニスカート姿の女性まで見かけました。バザールを歩けば、子どもたちが手を振り、母親も柔らかい笑顔を向けてくれます。土産物屋の姉妹は流暢な日本語で「来年日本に留学する予定です」と目を輝かせて話してくれました。次回は命がけの体験をお話しします。

2025年 11号 昭和時代の年末年始

今年も残すところ一ヶ月足らずとなりました。皆さんにとって、どのような一年だったでしょうか。来る年が、今年以上に良い年になることを心から願っています。そして、今年は昭和百年にあたります。今回は、私が子どものころに過ごした「昭和の年末年始」について少しお話ししたいと思います。今とはずいぶん違う雰囲気や習慣がありました。

2025年度 11号 昭和時代の年末年始

今年も残すところ一ヶ月足らずとなりました。皆さんにとって、どのような一年だったでしょうか。来る年が、今年以上に良い年になることを心から願っています。そして、今年は昭和百年にあたります。今回は、私が子どものころに過ごした「昭和の年末年始」について少しお話ししたいと思います。今とはずいぶん違う雰囲気や習慣がありました。

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クリスマスの思い出

まず思い出すのは子供の頃、保育園に本物の外国人サンタクロースがやって来たことです。大きな袋を担いで現れたサンタの姿に、私たちは大騒ぎ。背の高さにも、顔立ちにも、そしてプレゼントの豪華さにも驚いたものでした。私がもらったのは、大きな赤い車のおもちゃでした。そのサンタが、当時仙台に駐留していたアメリカ進駐軍の慰問として来ていたことを知ったのは、ずっと後になってからのことです。

 この時期になると、私は今でもディケンズ原作の映画『クリスマス・キャロル』を観たくなります。何度も映画化されており、原作に忠実なものから現代版、ミュージカル版、アニメ版まで、さまざまですが、どれも心温まる物語です。強欲で冷たい老人スクルージが「過去」「現在」「未来」の精霊に導かれ、自分の生き方を振り返るお話です。精霊たちは彼を叱ったり説得したりするわけではなく、ただ現実を見せるだけです。彼が自分自身で考え、変わっていく姿に心が動かされます。観終わると、自然に温かい気持ちになる映画で、ぜひおすすめしたい一作です。

年越しの習わし 

私の家では、年末になると神棚を清め、神鏡を拭き、榊と蝋燭を飾ります。そして「お正月様」と呼ばれる神様を祀ります。事代(ことしろ)(ぬしの)(かみ)大國(おおくに)(ぬしの)(かみ)大年(おおとしの)(がみ)、そして五穀豊穣の神々です。この風習は宮城県では比較的多く見られるものだそうですが、今では行う家庭も少なくなってきました。

 神棚の前にはお膳を置き、日本酒、ナメタガレイ、塩鮭、白飯を供えます。夕方になると、父を中心に家族六人がそろい、柏手を打って一年の感謝と新しい年の無事を祈る、これが我が家の年末最大の行事でした。

元旦と三が日

元日の朝は、お年玉をもらうのが楽しみでした。顔を洗い、両親の前に正座して「明けましておめでとうございます」と丁寧に挨拶します。うやうやしくお年玉袋を受け取ってすぐに中をのぞき、幸福感にひたりました。ただ、近所のお店は二日までほとんど閉まっており、今のようにコンビニもなかったので、何に使ったかは覚えていません。それでも、二日の仙台初売りだけは別でした。街中が人であふれ、今以上の賑わいだったように記憶しています。

食卓には母の手作りのおせちが並び、雑煮、あんこ餅、納豆餅などが定番でした。最初はご馳走に喜びましたが、三日も続くとさすがに飽きてしまい、家にあったチキンラーメンをすすったこともあります。今のように元旦の夜に焼き肉や回転寿司へ行く家庭など、当時は想像もしませんでした。

 また、当時は玄関先に獅子舞が来て舞い、家族の頭を軽く噛んで厄除けをしてくれました。家では福笑いやトランプ、独楽回しなどで遊び、私は特に凧揚げが好きでした。天凧や奴凧に新聞紙を細く切って長い足をつけ、近くの河原で風を受けて飛ばしたときの高揚感はいまでも覚えています。いまでは、そうした遊びをする子どもたちの姿をほとんど見かけません。季節の行事や正月の風情が少しずつ消えていくのを、寂しく感じるのは昭和に育った者として自然なことかもしれません。ですが、あの頃の素朴であたたかな時間を思い出すたびに、心のどこかに「人と人とが寄り添うあの感覚」を大切にしていきたいと思うのです。

2025年度 12号 魅知の国ウズベキスタン パート3 ~青の都から砂漠の町へ~

命がけのミナレット登攀

 ヒヴァで二泊したうち、忘れられない体験はミナレット登りです。ガイドは「危険だから登ってはいけません」ときっぱり言いました。ところが、絶叫マシンやバンジージャンプを制覇した私はつい反骨心を燃やしてしまい、五千スム(百円)を払って挑戦しました。

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ミナレットの石段は一段三〇センチ以上。手すりもなく真っ暗で壁はツルツル人の気配は全くなし。スパイダーマンのように両手両足でへばりつき、必死に登りました。ようやく頂上に着くとそこには屈強な男たちがいて、一瞬背筋が凍りました。幸い記念写真を撮るだけで済みましたが、帰りは「奈落の底」に落ちる恐怖と戦いながら倍の時間をかけて下り、足は震え心臓は破裂しそうでした。

後から分かったのは、これはホジャミナレットといって高さ五十七mあり、観光ガイドでも「上級者向け」で途中に挫折して戻る人も多いとのことです。無謀にも挑んだ自分を少し誇りに思いつつ、命のありがたさをしみじみ実感した瞬間でもありました。

ここは本当にイスラムの国?

 レストランでは、ビールだけではなく旧ソビエト連邦の影響かウオッカやワインはどこにでもおいてあり、町の売店でも売っておりどこでも飲むことができました。同行した70代のツアー客は朝昼晩とビール、ワイン、ウオッカを飲んでおりISイスラム国が跋扈する中近東であれば、いくつ首があっても足りないのではと想像してしまいました。

 また、カバブを注文したら羊肉、牛肉、豚肉と3本のセットが出てきた時には思わずのけぞってしまい、この国にはハラル規制はないのだろうかと他人事ながら心配になったほどです。

 ソ連抑留の日本人の悲しい活躍

 旅の終盤、首都タシケントでは戦後の歴史に触れる機会がありました。ソ連に抑留された数百名の日本兵は、遠いこの地まで連れてこられて1945年から2年間ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に従事させられました。1966年のウズベキスタンの大地震の時には、市内の3分の2の建物が壊れましたがこの建物はビクともしなかったと、現地では今でも語り継がれているそうです。ガイドのタチアナさんがこの近くをタクシーに乗った時に彼女に運転手が「この劇場は日本人が造ったから地震でも壊れなかったのさ」と自慢げに話していたと我々に打ち明けてくれました。

 その近くのムスリム墓地には、この地に眠らざるをえなかった79名の日本人の墓地があり、近くのドイツ人墓地と違って、日本人墓地には訪れる人や日本人を埋葬したイスラム教徒が祖父の代からいつも線香の煙で守っているそうです。

おわりに

 ウズベキスタンは、日本から見れば遠くて馴染みの薄い国です。しかし実際に訪れてみると、そこにはシルクロードの歴史が息づき、自然の厳しさと人々のたくましさが共存する世界が広がっていました。

 私が感じたのは、「知らないからこそ行ってみる価値がある」ということ。皆さんも、まだ見ぬ国や文化に出会うことで、きっと自分の世界が大きく広がるはずです。 

2025年度 13号 5年日記帳のすすめ

新しい年を迎えると、「今年は何かを始めてみよう」と思う人も多いのではないでしょうか。そんな皆さんに、ぜひお勧めしたい習慣があります。それが、5年日記帳を書くことです。

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私は5年日記帳というものを、毎日書き続けています。奨学生の皆さんにも、ぜひ一度トライしてみてほしいと思います。

 「書くのは苦手」「三日坊主になりそう」と心配する人もいるかもしれませんが、毎日一行だけでも十分です。無理なく続けることが、いちばん大切だからです。

 日記に書く内容は、友人や学校、家のことでもかまいませんし、世の中で気になった出来事や、その日に感じた喜びや悩みなど、どんなことでも構いません。そうして書きためた記録は、あとから何かを思い出したり、振り返ったりする時に、とても役に立ちます。

 実は私も、コロナ禍の最中に感染したことがありました。そのとき日記を振り返ってみると、数週間前の出来事であっても、その間の行動や体調の変化をほとんど思い出すことができ、大変助けられました。記録を残すことの力を、あらためて実感した出来事でした。

五年日記帳は、その名の通り一冊で五年分を書けるようになっています。B五サイズほどで、一ページに二日分の欄があり、縦に五年分が並んでいます。表と裏で二十日分、全体で九十数枚ほどです。巻末には年間カレンダーや行事表、目標を書くページなどもあり、厚さも約二センチと手ごろです。

一日に書くのは六行ほど。気が進まない日は、箇条書きでも一言でも十分です。市販のものを使わなくても、大学ノートなどで工夫すれば自分仕様の日記帳を作ることもできます。

私が日記をつけ始めたのは中学生の頃でした。社会に出るまでの十年間、毎日ではないにせよ書き続けましたが、その後二十年以上中断しました。そしてあるとき、再び書こうと思い立ちました。続けていくうちに、日記には三つの効用があると感じました。

一つ目は「記憶力を保つこと」です。毎日少しでも書くことで、その日の出来事を思い出す作業が脳を刺激します。老人ホームなどで昔の話をすると認知症の進行が遅くなると言われますが、それと同じ「思い出し効果」です。日記を書くことで、脳の海馬が自然と鍛えられるのです。

二つ目は「前向きな考え方になること」です。日記は自分を映す鏡のようなものです。ネガティブなことを書き連ねるよりも、小さな喜びや「今日の一善」などを記すようにすると、気持ちが少しずつ上向きになります。つらい出来事も、時間が経って読み返すと、自分の成長を感じられることがあります。

三つ目は「目標を立てる習慣がつくこと」です。五年日記には、各年の初めに目標を書く欄がありますが、普通の日記でも一年や月ごとの目標を決めるとよいと思います。「英語の成績を上げる」「〇〇を買う」といった具体的なものから、「体を大切にする」「人に親切にする」など心の目標まで、なんでもよいのです。

五年日記のよいところは、毎日書きながら過去の自分を振り返られることです。「去年の今日」「三年前の今日」の自分と、今の自分を比べてみると、成長や変化を感じるはずです。過去の自分よりも少しでも前に進んでいると感じられたら、それが生きる力になります。

どうか皆さんも、五年日記帳にチャレンジしてみてください。数年後の自分が、そこに書かれた文字を読みながら、きっと懐かしく、そして少し誇らしい気持ちになると思います。

2025年度 14号 「訊く」耳を持つということ

「ここはどこでしょうか?」

私が以前に仙台市内アーケード通りを歩いていたときのことです。七〇歳を少し越えた上品そうなおばあさんが、不安げな表情で声をかけてきました。「ここは中央通りですよ」と答えると、「ああ、そうですか〜」と弱々しい返事。おばあさんのゆっくりした後ろ姿を見送ろうとしたとき、どうにも様子がおかしい。気にかかり、追いかけて「どちらへ行かれるんですか?」と尋ねると、「自分でもどこに行くかわからないの〜」と言うのです。

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これは大変だと判断し、近くの商店におばあさんを連れていき、誤解を生まないよう店の方に立ち会ってもらいながら持ち物を確認しました。小物入れの中から病院の診察券が見つかり、その病院へ電話で事情を説明。今なら個人情報保護の点で断られたかもしれませんが、当時はなんとか住所を教えてもらうことができました。車通りのある道へ出てタクシーを止め、片道の運賃を支払って、運転手さんにおばあさんの家まで送ってくれるようお願いしました。

おばあさんは「ここはどこ? 私は誰?」と朦朧としていたものの、それでも人に「訊く」という行為をしたからこそ、行方不明や事故など、事態が悪化することなく済んだのではないでしょうか。

辞書を引くと、「訊く」は「たずねて答えを求める、問う」。一方「聞く」は「音・声を耳で感じとる」「人の言うことを理解して受け入れる」。同じ“きく”でも、前者は能動、後者は受動で、意味は大きく違います。

多くの人が日常の“きく”を「聞く」だけにしてしまい、漫然と聞き流し、理解したつもりになっているのかもしれません。わからないことや疑問があれば、早めに「訊く」。そしてメモを取り、後で調べてみる――その積み重ねが大切です。

学校でも日常生活でも、一日に一度や二度は「おかしいな」「どうして?」と思う場面があるはずです。それがまったくないということは、「訊く耳」を失いかけている証拠。意識的に「訊く」を実践することが大事なのです。そして、他人に対してだけでなく、自分自身にも「訊く」ことは重要です。

ここで一つの逸話を紹介します。

仲の良い二人の男がいた。山道を歩いていると虎が現れ、二人は必死で逃げ出した。ところが途中、一人の男が立ち止まり、靴紐を結び直し始めた。もう一人は「そんなことをしても虎の速さにはかなわない」と叫んだ。しかし、その叫んだ男こそ虎に追いつかれて襲われてしまった。靴紐を結んだ男は、「虎より速くなくても、彼より速ければ助かる」と考えていたのだ。

これはまさに、自分に「どうすれば助かるのか」と繰り返し“訊いた”結果と言えるでしょう。

ことわざでも多くの人が、きちんと「訊かない」ために誤解していることわざがあります。

「情けは人のためならず」。

「情けをかけるとその人のためにならない」という意味ではなく、「人に親切をすると巡り巡って自分に返ってくるから、情けはかけたほうがよい」という教えです。

他にも、「マゴにも衣装」は「孫は何を着せても可愛い」ではなく「身分の低い者でも良い衣装を着ればそれなりに見える」の意。「檄を飛ばす」は「励ます」ではなく「主張や考えを広く知らせ同意を求めること」。

また「犬も歩けば棒に当たる」は二つの意味があるので、ぜひ自分で調べてみてください。

子どもの頃は誰もが「なぜ? なぜ?」となんでも訊き、驚くほどの速さで成長します。「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」という言葉を、実は幼いころの私たちは本能的に知っていたのかもしれません。