2025年 1月 2号 新外国語講座 ~これでコミュニケーション力アップ~
仕事の関係で数多く行った国はフィリピン、現地に行くと日本語と同じ発音の面白い言葉が多数あります。フィリピンは英語がほぼ90パーセント以上の国民が話せますが、自国語としてはタガログ語が公用語です。
「傷だらけのローラ」という西城秀樹のヒット曲がありますが、タガログ語ではローラはおばあさんのことなので「傷だらけのおばあちゃん」となってしまいます。また女性のことは「ババエ」と覚えやすいのですが、つい日本で女性を「ババエ!」などといったら張り倒されるかもしれません。それでもルーマニアでは「おばあさん」のことを日本と同じ「ババ」というので面白いですね。
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フィリピンを長年植民地にしていたスペインでは、ニンニクを「アホ」牛を「バカ」というので、アホバカと言ったらスペインのレストランではウェーターが喜んで「ニンニクたっぷりの牛のステーキ」などと勘違いして注文を受けるかもしれませんので要注意です。
その他にヨーロッパの言葉で日本語風の面白い言葉を列挙すると、スペインのバスク地方では「コレバカリダ 」は「ほんのこればかりだ」。
ハンガリーでは、塩気がないことや塩が足りないことを「シオタラン」。
ドイツ語では「アッソー」が「あ、そう」。
ギリシャ語の「タベルナ」は「レストラン」の意、よく知られています。
イギリスでは「ビンボー」は「美人だけど頭がからっぽな女性」
ポルトガルでは「ニンゲン」は「誰もいない」という意味だそうです。
日本の国民飲料の「カルピス」は欧米人には「カウピス」と聞こえ、それは英語で「牛のオシッコ」という意味なので、欧米向けのカルピスは「カルピコCALPICO」と商品名を変えて販売されています。
欧米以外の国、例えばアラブの国では「アンタ、アホヤ‼」と言われたら、がっかりしないこと、それは「おまえは兄弟のようだ‼」と親愛の情で遇されたということなのだから。「アンタ」は「あなた」で、「アホヤ」は「兄弟」との意味だそうです。また、「スンマヘンナ」は英語の「Excuse me」と同意語だそうで、「スンマヘンナ、アホヤ」といってカスバの人混みを歩いたら、気分は大阪の新世界かもしませんね。
「チャランポラン」はペルシャ語で「くだらないことばかり言う」という意味なので、イラン人と話している時に日本語がわからないと思って、その言葉を発したら大変なことになるかもしれません。なお、アラビア語とペルシャ語は似ていますが、中国語と日本語の関係と同じようなのかもしれません。
アメリカのナバホインディアンの言葉では「遠く」を「アッチ」、近くを「コッチ」といい、「あなた」は「ナンジ」、「どこ」は「ドコ」、「鼻」は「ハナ」などと日本語と同じような言葉があるそうで、もしかすると遠い昔には日本人と同じルーツとも想像してしまいます。
アジアでは、ミャンマーの言葉で「ヤッタナー」というと「宝石」の意味で、貴金属店を襲った強盗のセリフのような言葉があります。
また、タイ語で「キレイ」というと「ブス」のことだそうで、せっかくのタイ美人と知りあっても怒らせないように注意したいですね。
中国語関係では、上海語で「オッサン 」というと「学生」のこと、台湾語では、「プータロー」というと、日本と同じ無職の事で「無頭路」と書くそうです。
延々と各国の言葉を羅列しましたが、皆さんが上記にあげた外国人と遭遇した時に爪の垢ほどにでも役に立っていただければと紹介しました。
2025年 1月 1号 5年日記帳の効用
私は5年日記帳というものを毎日書いていますが、奨学生の皆さんにも是非トライしてみることをお勧めします。自分は書くのは苦手とか、三日坊主になるかも、などと心配する方は毎日一行でも良いのでやって欲しいのです。
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日記には友人や学校や家のこと、その他に世間で関心があったことや喜怒哀楽を感じたことなどなんでもありなので、あとでなにかを思いだしたり確認したりする時に大変に重宝です。コロナ禍の時に私も感染してしまいましたが、日記を振り返ってみれば数週間前であっても、その間の行動をほとんど思いだすことができ大変に役に立ちました。
5年日記帳について説明します、その名の通り5年分が1冊になっています。大きさはB5でその構成は1ページの横に日付が2日分、縦に5年分印刷してあり、10日分を書くことができるようになっています。表裏で20日分なので5年間でも90数枚で収まってしまいます。さらに、5年間のまとめたカレンダーや祝日行事、1年の初めに目標を書くページやフリーのページなどもあり、厚さも約2センチほどなのであまりかさばりません。1日に書くのはB5サイズの10分の1のスペースの6行だけなので、書くのを気が進まなければ箇条書きや単語だけ並べるだけでも、1年の日記帳のようにあまり白い部分が目立たず罪悪感もなく気楽にやれます。既製品でなく大学ノートでも工夫すれば始められるはずです。
私は日記を中学生の頃からつけ始め、その後に社会に出るまで毎日ではありませんが、10年間位書き続けていました。社会に出てからは、サボってしまいその後に20年以上ブランクのあとに、思うことがあり再び日記を書き始めたのです。日記を継続してみて次の3つの効用があっことに気づきました。
一つ目は「記憶力」の低下を防ぎ頭が活性化することです。一日一度、数行でも自分の行動記録や出来事を書くことによって、それに関連したことを思いだすため常時鍛えられた競走馬のように、脳にある自分の海馬を鍛えることになります。この「思いだし効果」というのは、例えば老人ホームで入居者に自分の若い頃や子供の頃の話しをしてもらうと、脳の動きが活発になり痴呆症の改善や遅らせたりする効果があるというものです。
二つ目は「前向き」な考え方をするようになるということです。日記を続けていくと、自分を改めて見つめなおすことでストレスに少しずつ強くなるのではないでしょうか。ただし、内容はなるべくネガティブではなくポジティブなことを書くようにします。一日を振り返った時に「一善」でも行った時はそれを書きとめ、反省するような行動をした時はそれを見つめなおして繰り返さないようにする、いやな思いをした時はよほどでない限りそれは書かないことなどです。後で日記を読み返した時にプラスの出来事を極力多くすることが自分の糧になるのではないかと思います。
三つ目は「目標をつくる」習慣が身につきます。5年日記の場合は、5年間の歳月に達成したい目標を各年度に記入しますが、1年日記の場合でも今年の目標や月ごとの目標、更に春夏冬休みやゴールデンウィークなどに何をしたいのかを、その初めの日までに書いておくと良いと思います。その場合の目標は「**の成績を上げる」「**の推しをする」「**を買う」などの他に、健康や人間関係や自己啓発などの目標も入れると良いでしょう。
まずは1冊目の5年日記帳に是非トライして下さい。いつも前日前週前年や数年前の振り返りができ、そうすることによって自分にとって過去よりも今からのほうが、もっと良い人生を送ることができるのではないでしょうか。
2024年12月 2号 昭和時代の年末年始
今年も残すところ1週間ですが、皆さんはどのような1年だったでしょうか。来年は今年以上の良い年になることを心から願っております。
来年は昭和百年になりますが、昭和の年末年始は今とは全く違いました。特に昭和時代に私が過ごした子供のころの年末年始について、お話しします。
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クリスマス
クリスマスというと一番の思い出は、私が通っていた保育園に外人のサンタクロースが、大きな袋にプレゼントをたくさん持ってきたことでした。私たちは大騒ぎしながらサンタの体の大きさに驚き、その日本人離れした顔に驚き、プレゼントの豪華さに驚いた覚えがあります。私には大きな赤い車のおもちゃでした。そのサンタクロースがアメリカの進駐軍(戦後日本に進駐した米国の軍隊で仙台には1957年まで)の慰問と知ったのはずっと後のことでした。
その影響か私はこの時期になるとディケンズ原作の映画「クリスマス・キャロル」を見てしまいます。この物語は何度も映画化されていて、原作に忠実なもの、現代版、ミュージカル版、アニメ版など幾つもあり、飽きることはありません。
物語のあらすじは、ある強欲で思いやりのかけらもない金貸しの老人スクルージが、クリスマスの前日に「過去」「現在」「未来」の精霊に導かれ、時間の旅をしながら彼自身のありさまの光景を見させられ、自分の生き方を見つめなおすという内容です。
精霊たちはスクルージには、強制的や指導などのようなことは一切言わないで、彼に自分で行ったこと、現実のこと、将来なるかもしれない姿を見せるだけで、自分で考えて行動することを促しています。見終わった後に心がほっこりする映画なので是非お勧めします。
年越し
我が家では物心ついた頃から年末になると神棚を掃除し、神鏡をよく拭き、さかきと蝋燭を飾り、印刷された神様を飾っています。その神様たちは「お正月様」といい、事代主神、大國主神、大年神そして五穀豊穣の神様です。あとでわかったことですが、この習慣は宮城県に多く見かけられる神事ですが、我が家では今でもその習慣がありますが、それをやる家庭はだいぶ少なくなったようです。神棚の前の畳の上にはお膳を置き、その上には日本酒とナメタガレイと塩サケや白飯が入っており、夕方頃には父親を筆頭に6人家族全員で柏手をして、今年の感謝と新年からの無事を祈るのが毎年の年を締めくくる一大行事でした。
NHK紅白歌合戦
当時は大晦日夜の9時から始まる紅白歌合戦は、日本国民総動員の必須視聴番組でした。昭和30年代の頃は視聴率80%を超えているお化け番組でした。紅白歌合戦は当初はラジオで放送されたのですが、1953年からはテレビでも放映され国民的番組になったようです。ほとんどの子供たちは今と違いその開始時間ごろには寝ていた時代なので、私も眠い目をこすりながら時々あくびをしてボーッとして観ていました。
年越しそばが出てきた時だけは元気がでましたが、番組の最後に赤白のボール投げが始まるころには、ほとんど夢うつつの状態でした。そして「ゆく年くる年」が放映され、「ゴーン、ゴーン」という除夜の鐘の音が聞こえてくると、それが子守歌に聞こえて眠ってしまいました。ちなみに当時は、「ゆく年くる年」はNHK以外でも同じ名称で放送しており、全部の民放が共同で制作し同じ内容をやっていましたが、1989年からは各社独自の番組を作るようになりました。
元旦と三が日
朝起きると、お年玉が楽しみで顔を洗うと両親の前で正座し、「明けましておめでとうございます」と年に一回限りの丁寧なあいさつをしました。おごそかに渡されたお年玉の袋をうやうやしく受け取り、後ろ向きになりすぐ開けて幸福感に浸ったのです。ただそれを何に使ったのかはほとんど記憶がありません。というのは近所の店は1月2日まで全部閉まっており、今のようにコンビニもない時代なので、何も買うことができなかったからかもしれません。それでも、仙台初売りで1月2日は繁華街だけは、今以上に大変な混雑になっていたようです。
元日は、雑煮やあんこや納豆餅などのほかに、母の手作りのおせち料理が出てきました。最初はご馳走なので喜んでたべていましたが、3日間も同じようなものが出てくるので飽きてしまい、餅以外のものを食べたくなり家にあったチキンラーメンをすすったりもしました。今の時代は2日目どころか元旦の夜には、焼き肉や回転ずしなどに駆け込む家族も珍しくないようです。
また当時は玄関先に獅子舞いがきて踊り、最後に家族の頭をカツンカツンとかじって厄除けをしてくれました。もちろん、福笑いやトランプ、独楽回しもしましたが、凧揚げが特に好きで天凧や奴凧に新聞紙を細く切ってつなぎ合わせにした足をつけて近所の河原で飛ばしたものでした。
今は子供たちが、そういう遊びをやっているのをほとんど見かけることもなく、正月の風情も感じられなくなったのが、少し寂しいと思うのは昭和生まれの私だけではないと思ってしまいます。
2024年12月 1号 「訊く」耳を持つということ
「ここはどこでしょうか?」東日本大震災前に仙台市内のアーケード通りを一人で歩いていたら、年齢が七〇歳を少し越した上品そうなおばあさんに声をかけられました。「ここは中央通りですよ。」と答えたら、「ああ、そうですか~」と弱々しい返事。そのおばあさんがゆっくり去って行く後姿を見たら、どうも様子がおかしいので、あとを追って尋ねてみる。「どちらに行かれるんですか?」と私、「自分でもどこに行くかわからないの~」。
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これはまずいということで、近くの商店におばあさんを連れて行き、お金など盗んだと思われると困るので、店の人に立ち会ってもらい持っていた小物入れを開けて、なにか住所や名前がわかるものがないか調べてみました。病院の診察券が入っていたので、その病院に電話で事情を説明し、今であれば個人保護法うんぬんで断られたかもしれませんがなんとか住所を教えてもらう。車の通る道まで行き近くのタクシーをつかまえて、運転手に片道分の運賃を支払い、なんとか頼みこみ家まで送るように頼みました。
そのおばあさんは、「ここはどこ? 私は誰?」とぼんやりとしながらも「訊く」ことをしたので、そのまま行方不明や不慮の事故など事態が悪化しないですんだのではないでしょうか。「訊く」とは辞書を引くと「たずねて、答えを求める。問う。」とあります。「聞く」は、「音・声を耳で感じとる。」とか「人の言うことを理解して、受け入れる。」である。同じ「きく」でも前者は能動的であり、後者は受動的と全く意味が違った言葉になります。
多くの人達は「きく」のほとんどが「聞く」になっているのかもしれず、漫然と「聞き流す」ことで理解したつもりになってしまっているのかもしれません 。解らないことや疑問があれば、なるべく早く訊きながらメモをとっておいて後で質問や調べることをすると良いでしょう。
学校や日常生活でも日に一回や二回は必ず疑問に思ったりおかしいと感じたりすることがあるはずです。それがないということは、「訊く耳」を持たなくなってしまっていることになるので、意識的に「訊く」ことをやってみることが大事なのです。
ある逸話を紹介します。
仲の良い二人の男がいた。山の中を歩いていたら、虎が近くに来た。二人が懸命に逃げる途中に、片方の男が靴の紐をきっちり結び始めた。もう一人の男は、「そんなことをしても虎の走る速度にはかなわないさ。」とつぶやいた。
しかし、その男は虎に襲われて食われてしまった。実は紐の男は「彼より速く走れば助かる。」と考えたのである。これは己に「訊く」ということ、つまりどうすれば助かるかを何度も自問自答をした結果なのです。
多くの人がよく訊かないで間違って覚えている典型的なことわざがあります。
「情けは人のためならず」を「情けをかけることは、その人のためにならないからかけないほうが良い」と誤解しており、本当の意味は「人に情けをかけることによって、巡り巡っていつかは自分のもとにも帰ってくるので、人には親切にしたほうが良い」ということなのです。
そのほかにも「マゴにも衣装」とは「孫はどんなものを着せても可愛い」ではなく「馬子(身分の低いもの)でも良い衣装を着せればそれなりに見える」。また、「檄を飛ばす」は「がんばれと励ます」ことではなく「自分の主張や考えを広く人々に知らせ同意を求める」ことなのです。又、「犬も歩けば棒に当たる」は2つの意味があるので、是非調べてみて下さい。
子供の頃は、「なぜ?なぜ?」となんでも訊いてアッという間に成長します。
「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」をきっと幼いころには本能的に知っているのかもしれないですね。
2024年11月 2号 昭和回想録~映画鑑賞会・ストーブ当番~
昭和の時代というと高校生の皆さんには遠い昔で、我々が明治時代を想像するのと同じ感覚かもしれません。来年の2025年は昭和百年ということもあり、私の小学生時代の昭和について紹介します。
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昭和30年前後の小学生の頃は、シラミをとるために頭に殺虫剤DDTをかけられたり、回虫検査をされたり、赤痢や疫痢が時々発生して保健所の白服マスクの職員が近所に消毒しにきたりして、衛生状態はあまりよくありませんでした。また、汽車やバスや市電の公共交通機関、役所や映画館や食堂などはもちろん、学校の職員室でもたばこの煙がいつも、もうもうとけむっていました。「健康」を考えると今とは全く逆の時代ではありましたが、それでも世の中は皆が上昇未来志向で明るい雰囲気で生活を送っていたような気がします。
私が小学生の時は、生徒の数は1クラスが55人で学年は8クラスで同学年生徒が450人位いました。上のクラスは12クラスもあり全校生徒数は3千人を超えていたようです。全校一斉の朝礼の時などは生徒が途中で具合が悪くなり、あっちでヨロヨロこっちでバタンッと何人も倒れましたが、今のように太った子供はほとんどいなかったので、中には栄養不足や貧血のせいで倒れたのかもしれません。
映画鑑賞会
小学校では時々映画の上映があり、在校生が多かったので講堂には児童全員が収容できないため学年別に入り、学校の講堂の床に直に座りながら観ました。上映されていてよく覚えているのは母娘もので、継母にいじめにいじめられたシンデレラのような娘が耐えに耐え、やがて優しい本当の母親にめぐり会うという、今では「くさい」と誰もが思う内容でしたが当時の子供たちは小さい心を痛めて、滂沱の涙を流したものでした。たまには時代劇も上映し、悪代官をやっつけるために正義の味方が馬に乗って、処刑寸前の無実の罪の人々を助けに駆け付けたりする場面では、皆で北朝鮮の熱烈人民のように大喝采大拍手をしたのでした。
ストーブ当番
小学校では冬は「ストーブ当番」という役目が全員に交代で割り当てられました。二人一組で先生から任命を受け、毎日交代で当番が朝早く学校に行き、うず高く積まれた亜炭(石炭より熱量が低い)置き場から台形上のバケツにてんこ盛りして、ふうふう言いながら教室まで二人がかりで運ぶのです。教室のだるまストーブの中に新聞紙をいれ、その上に細い木材をおいて火をつけ、火勢が強くなったら亜炭をいれて着火させる。ストーブの脇には用心のために水を張ったバケツを置いておきます。教室のストーブは温まるまでに結構時間がかかるのですが、職員室に行くと教師専用のストーブの燃料はコークスを使っており、亜炭と違って熱量が多くアッという間に高温になりストーブの側面が赤々となっているのが羨ましかったのです。授業が終わったら当番は燃え殻の灰を掃除し、火事の防止のために水をストーブの中にはっておかなければなりませんでした。当時の小学生は当たり前のようにやっていましたが、今の時代では絶対にやらせないでしょう。それでも自分の教室を掃除するという現在でも続いている習慣は、外国でも称賛されているようです。
私が昔に比べて現在は学生も社会でも、人との関わりがだいぶ減っているように感じるのは、昭和の濃密な時代を経験したからかもしれません。
2024年11月 1号 人の相対性理論 ~3分は短い?長い?~
人を評価するには、「絶対評価」と「相対評価」とがありますが、それは「言うは易し」でなかなか難しいものです。アインシュタインの相対性理論は、「時空」を物理学上で解説した理論なのですが、それを人間にあてはめると自分の立ち位置によって変化する相対評価と同じような現象なのではないかと思うのです。アインシュタインの理論が正しければ、私達人間はいつもその原理のように考えていることが多いのかもしれません。
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それは、楽しい事と苦しい事、面白い事とつまらない事、好きな事と嫌いな事などに遭遇や経験する時の時間の長さです。社会人であれば、昼休みに気の合った同僚と趣味や面白い話しをしている時間と、上司に叱責や説教されている時間は、実際には同じであっても何倍もの長さに感じてしまいます。学生であれば、クラブ活動をしている時間と、不人気の講師によるつまらない授業を聴いている時間が同じ時間などとは到底思えません。野球観戦であれば、9回の裏ツーアウト満塁の展開で、応援しているチームが勝っている場面と負けている場面では、1分が10分以上にも感じられることを経験した人は多いのではないでしょうか。サッカーのアディショナルタイムやボクシングの最終ラウンドなども同様です。
信号待ちでは、急いでいる場合と余裕たっぷりの場合の時間でも雲泥の差の長さに感じられます。他にも、恋人と過ごす時間と残業の時間、面白かったり感動したりした映画と入場料を返して欲しいくらいのつまらない映画を観た時間、などは時間の経過が「天と地の違い」であり「月とスッポン」であり「提灯と釣り鐘」の差があります。
よく使われる「3分」という長さも相対性原理に支配されているのかもしれません。短く感じる3分は、腹が空きすぎている時のカップ麺の出来上がり時間、登校前の布団に入っている心地よい時間、子どもであればウルトラマンが活躍する3分間等々です。
対して長く感じる3分は、話しが不得手な人の冷や汗のスピーチ、切羽詰まった時の駅のトイレ待ち、健康にいいからとやってみた3分間の縄跳び、3分も見てしまったつまらないユーチューブ等々です。
人と人との相対性原理は年齢による場合が、どの年代でもよく見受けられます。はたち前後の私から見てうらやましい程の溌溂とした若者が「自分の若い頃は・・」としたり顔で言ったり、30歳前後の美人を見て「あんなオバサンにはなりたくない・・」などと口をとがらして話すのです。
旅のツアーで一緒になった80代の方に年齢を聞かれたので「もう古希になりましたよ」と返事をしたら、「まだまだ若いねえ~」と諭すように言われてしまいました。人は50歳になれば70歳まで生きれば十分だと言い、70歳になると平均寿命よりも少し長生きすればいいと80歳後半の目標を口にします。
紀元前の遺跡の壁には「今の若いものは・・」という現代人でも発する言葉が残っていたというのですから、人間はいつの時代でも同じような思いをするのでしょう。
最後に、人の相対性理論の例とは少しずれているかもしれませんが、法話の名人である禅僧沢庵和尚と徳川家光の面白い逸話を紹介します。
家光は沢庵に「最近何を食べても美味しく感じない。何か美味しいものを食べさせてはくれないか。」と頼みます。沢庵はその言葉にうなずき、翌日の午前に再び来るようにと言い、家光は翌日来ましたが午後まで待たされた後に、ようやく現れた沢庵が出したのは大根の漬物とご飯だけでした。しかしお腹が空いた家光はそれを一気に食べ、「こんなにもうまい飯を食べたのは久しぶりだ。」と言って沢庵の考えを理解したのです。
家光はその時に出された漬物を「たくあん漬け」と名付けたのでした。
2024年10月 2号 魅知の国ウズベキスタン
コロナ禍前に仙台空港からの直行便のツアーでウズベキスタンに行ったことがあります。その時に垣間見たこの国について、私が感じたことやその旅の一部をご紹介します。 ウズベキスタンというと中央アジアにあるというのは、おぼろげながら認知している人は多いかもしれませんが、他の国との位置関係やまして国の情報など知っている人は、恐らくほとんどいないのではないでしょうか。
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もちろん私もその知識はなくいつもの野次馬根性で、「旅行は、なるべく今しか行けないところ」を優先して行くようにしているのでこの国に行ってみようと決めたのです。近隣国にはアフガニスタンやイランなどがあり、危ない国というイメージを持っている人が多いようで、「そんなことはない」と自分では思いながら、内心は少しだけ「もしかすると・・」などの思いが頭をよぎりましたが、やはり聞くと見るとは大違いということを実感しました。
仙台空港を飛び立ちウズベキスタン航空機が、サマルカンド空港に着いたのは9時間半後の現地時間18時半(時差マイナス4時間)であった。ちなみにウズベキスタンの首都はタシケントであり、青の都といわれるサマルカンドはシルクロードの中心都市であった。サマルカンド空港では日本政府の声掛けのツアーということで、空港の外には楽団の笛や太鼓とともに6人の美女軍団が民族衣装姿でにこやかに出迎えてくれた。これだけで単純な私は、いい旅になりそうだと同行した妻に言ったものだ。
(途中略)
ツアーの5日目はシルクロードの十字路として栄えた僧院を意味するブハラから、砂漠のオアシス都市ヒヴァへ行くためにキジルクム砂漠を突っ切って走る450㎞のバスの旅。出発して1時間ほどするとまばらにあった民家が姿を消し、両側が茫漠の道を延々とバスは進んでいく。このキジルクム砂漠は砂漠というより土漠にちかく、赤茶けた岩や石や土がほとんどで、山はなく地平線がうすぼんやりとしているのが見えるだけである。わずかに生えているペンペン草のような丈の低いラクダ草は水分をとるため30m位も根が地中に張っており、見かけとは大違いの生命力に感心する。赤い砂を意味するキジルクム砂漠は面積が30万㎢あり、その地下には金や豊富な天然ガスが眠っており、道中にもはるか遠くにガスの採掘施設が見える。
途中、360度なにもない場所でトイレ休憩となり、女性は車の右側全部、男性は道路を挟んで左側全部がトイレと指定される。土漠をまっすぐ走るハイウェーを時折ものすごいスピードで走る車の音を背後に受けながら、ほぼ全員が排出作業に専念する。それから2時間後、昼食はガソリンスタンドを併設する裏庭の簡易食堂でナンと焼きたてのカバブをいただき、余った食事をやせこけた犬に与えたあと、再びバスに乗り込む。
突然検問所のような建物があり、バスが徐行したがそれはウズベキスタンの中にはもう一つ「カラカル・パクスタン共和国」という自治州の国があり、建前だけの検問所らしい。例えていうとイタリアの中のバチカン市国のような存在かもしれない。車中では最初は景色などを撮っていたが、何時間も同じ景色なのでやがてほぼ全員が夢の世界に入ってしまった。バスはやがてパミール高原に源流を発する中央アジアの大河アムダリア川をわたり、夕方暮れなずむ中カラクム砂漠の出入り口として繁栄した遺跡都市ヒヴァの旧市街地イチャン・カラへと入っていった。
どこの国に行っても、最初はスリやかっぱらいや強盗など街の歩き方に注意を促されるものだが、ウクライナとロシア系のタチアナというガイドさんからは、一切そういう話しはなかった。実際にホテル周辺や観光地を歩いても胡散臭いような輩は見かけず、ハーレムのある建物の展望台で妻と眼下に見える街並みを観ていたら、現地の新婚さん風のカップルに写真を撮るので一緒に入ってくれと頼まれたことがあった。また、街中で女子高校生たちに、はにかみながらスマホで一緒に撮りましょうとも言われた。私たち夫婦がよっぽど珍しい顔をしていたのかどうか知らないが、旅先で現地の人々から声をかけられて写真を撮るというのは本当にまれなことであるので、そういうことがあってちょっと驚いてしまった。
街を歩く人たちもイスラム圏特有のスカーフであるヒジャブを被っている若い女性はほとんどおらず、中にはミニスカート姿の女性も歩いていた。バザールを歩いていても、にこにこ笑って手を振る子供が多くその母親も柔らかな笑みを浮かべてくれる。家族でやっている土産物屋のヴァジラとザリナというティーンの姉妹は、ジャパンセンターで日本語を習っているので、大変に流暢な日本語を話し「2019年に日本に勉強に行く予定なの」とキラキラした目で話していたのが印象的であった。
このほかにも「ここは本当にイスラムの国?」と思うことが多かった。レストランでは、ビールだけではなく旧ソビエト連邦の影響かウオッカやワインは、町の売店でも売っておりどこでも飲むことができた。また、レストランでカバブが羊肉、牛肉、豚肉と3本のセットが出てきた時には思わずのけぞってしまった。この国にはハラル規制はないのだろうかと心配になってしまう。各都市にある世界遺産の壮大荘厳なモスクやメドレセ(神学校)の建物の中には、必ずと言っていいほど土産物屋が入っていて、階段や欄干に絨毯を広げ「サアーッイランカネ」の連呼。日本でいえば法隆寺の建物の中に浅草の土産物屋が並んでいるようなものである。また、延々と続く砂漠をバスで走っていた時には、道路工事中の男が手を振っていたこともあり、国全体は我々が思うような保守的な「イスラム教の国」ではなく、本来の開放的な明るいアラビアンナイトの世界を思わせた。
戦後のソ連抑留の日本人のことも知ることができました。首都タシケントではソ連に抑留された数百名の日本兵は、はるばるこの地まで連れてこられて1945年から2年間ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に従事させられた。1966年のウズベキスタンの大地震の時には、市内の3分の2の建物が壊れたが、この建物はビクともしなかったと現地では今でも語り継がれています。ガイドのタチアナさんがこの近くをタクシーに乗った時に彼女がガイドとは知らずに運転手が「この劇場は日本人が造ったから地震でも壊れなかったのさ」と自慢げに話していたとのこと。その近くのムスリム墓地には、この地に眠らざるをえなかった79名の日本人の墓地があります。近くのドイツ人墓地と違って、日本人墓地には訪れる人も絶えず、祖父が日本人を埋葬したというその孫のイスラム教徒により、いつも線香の煙で守られているという話しを聞きながら、私達も墓に手を合わせた後、少し心を残しながらその地を離れました。
(付録)
ウズベキスタンのミニ知識
・中心アジアの真ん中に位置しており、カザフスタン(友好国)、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンに囲まれている。ちなみに「タン」は○○の地という意味。
・国土は日本の1.2倍で人口は3千万人、30才以下は70%とこれからの国である。又、世界に二つしかない海に出るために、少なくとも2つの国境を越えなければならない二重内陸国
・金銀銅やエネルギー資源も多く特にガスが国土の60%の土地に埋蔵されている。ソ連からの独立後は綿花を中心として小麦、野菜、ドライフルーツの生産も多い。
2024年10月 1号 「1.01」と「0.99」の法則 ~凡事徹底~
毎日着実にやることが結局成功することにつながる、という意味の諺や教訓は誰でも聞いたことがあるはずです。それを具体的にわかりやすく説明したのが、「1.01」の法則と「0.99」の法則です。
「1.01」の法則とは毎日毎日1%の努力を365日積み重ねるということです。
例えば、1.01✖1.01✖1.01✖1.01✖1.01✖1.01✖1.01✖1.01✖・・・・・
これを365回繰り返します。 そうすると1年後にはなんと37.8倍になっています。
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「0.99」の法則では、反対に毎日毎日1%サボってしまうと
0.99✖0.99✖0.99✖0.99✖0.99✖0.99✖0.99✖0.99✖・・・・・
これも365回繰り返します。なんと結果は0.03になってしまいます。
以前のゼロに近い銀行金利よりは高いですが、それでも以前の数値の33分の1になってしまいました。
1.01と0.99の差は最初には、たった0.02しかありません。ところが日々の積み重ねの1%の努力と1%の手抜きでこのように驚くべき差がついてしまいます。
「凡事徹底」という言葉があります。当たり前のことを当たり前に継続して一生懸命やるということですが、実は大変に難しいことかもしれません。よくできる人のことをあまりうまくできない人は、「あの人は才能があるから」などと言ったりしますが、実は「努力するということも才能」なのではないでしょうか。いかに努力をし続けるかということが非常に重要だと思います。
製造業では不良品を出さないために「ABC」を実践しなさい、とよくいわれます。それは「A」当たり前のことを「B」バカみたく「C」チャントとやるという事が品質管理の基本だからなのです。
また、「果にして驕る勿れ」という老子の言葉があります。
いかに努力していい結果を出しても強がったり威張ったりしたら、友から愛されなくなる。その成果は、みんなに協力してもらったことやちょっと運がよかったせいもあるかもしれない。出た成果を尊大に思いすぎて、自らを誇り他人を馬鹿にするのは破滅の一歩手前である。人は驕慢になったときは人生の勝負に負けているといいます。その成果は凡事を続けたということで、謙虚になればこそ喜びは家族や仲間で分かち合えられるものです。
このように、「凡事徹底」とは大変に重要な四文字なのですが、それに加えて「1.01」の法則を思い出していただきたいと思います。
繰り返しますが、当たり前のことを継続しながら少しだけ努力を積み重ねることで、やがては素晴らしい結果になるのではないでしょうか。